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劉備と曹操は筆談していた!?

(写真はjp.ign.comより引用)

皆様こんにちは!

日本にも熱烈なファンが多い三国志。英雄豪傑たちが、中国を所狭しと活躍するドラマは実に壮大ですね。

ん…?所狭し…?中国は狭くないよね。いや、結構広い。

今でも方言が通じないのに、あんな昔に言葉は通じたのかな?

今回は中国の言葉を三国志からナナメ読みしてみましょう。

● 劉備と曹操の出身地は大阪から福島県の距離!

主人公の一人、劉備は今の北京に近い琢群(たくぐん)出身で、今でも彼の地には生誕地とされる場所が残されています。

もう一人の主人公、曹操は今の安徽省(南京の西側)出身です。

曹操は魏、呉、蜀の内、北方の広大な魏国を支配したので、なんとなく北方の出身というイメージが強いですが、意外にも出身地は孫権の率いる呉国に近かったのですね。

彼らの出身地はなんと大阪と福島県ほども離れています。

さてこの二人、何度も顔を合わせ、有名なエピソードも数々。

当然対話もしているわけですが、さて、こんなにも郷里が遠くて、果たして二人は言葉が通じたのでしょうか?

写真はclublog.club-t.comより引用

● 統一された官話の出現はもっと後の世

安徽省は上海と比較的近く、今でも独特の方言があります。

これが二千年前ともなると、恐らく今よりもっと方言が多く、しかも、違いがもっと大きかったと思われます。

今でも北京人と上海人がそれぞれの方言で話すと、ほぼ通じないのですから、三国時代は言うに及ばずですね。

また、中国の王朝時代には、役人が皇帝と話をするための「🔗官話(マンダリン)」があることが知られていますが、これが出現したのはもっと後の時代だと考えられており、二千年も前の三国時代にあったという記録はありません。

では、異なる地域の者はどうやって意志疎通をしたのでしょうか?

● 中国では一貫して文人が尊敬されてきた理由

中国の歴史は三国志のような王朝興亡の物語が多いため、武力に目がいきがちですが、実は一貫して重視されたのは文才、もっと端的にいうと「字が読める、字が書ける」ということでした。

なぜかと言うと、これができなければ、他の地域の人と「話をする」ことができなかったからです。

そう、あの広大な中国に散らばる無数の言語と、それらを話す人々を結び付けていた唯一の共通言語、それはなんと🔗漢字による筆談だったのです。

ですから、当時読み書きができるというのは、今で言うバイリンガルどころか、もっともっと凄いマルチリンガルも同然だったわけです。

だから中国では文才がかくも重視されてきたわけですね。

大富豪のヤンキー息子だった曹操は当然読み書きできたし、貧乏が売りの劉備でも、実は有名な先生に習っていました。

武芸一辺倒ではのし上がれなかったのですね。

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